希望の光バプテスト教会

聖書が教える「聖地旅行の意味」Knowledge by experience.

「行く必要性があるのか」判断に悩むあなたへ

イエスの生涯を追体験

聖書がフルカラーで読めます

 聖書を読む際、その記事を自分のもとに引き寄せるのではなく、自分から聖書の世界に歩み寄る必要があります。聖書にはイスラエルの気候や植物や風景が ある場合は描写的に、または詩的に表現されます。もしも実際に現地に足を運び、手に触れ、目にし、口にすることが許されるならば、このような五感を通して得た 体験は、きっと聖書をより鮮やかに、正しく読み解く助けとなるでしょう。

 そして聖書を通して神様となお親しい関係を持つときに、今まで教会で教えられてきたことが本当だったのか、一つひとつ検証する技術を養うことにもなるでしょう。 それこそ、宗教改革以来求められてきた精神の実践です。一人でも多くの方が、この素晴らしい体験を味わわれることを願います。

このコンテンツのキーワード #聖地旅行 #ユダヤ(ヘブル)的視点 #聖書 #イエスの生涯 #イスラエル

体験に基づく知識・知恵

*聖地旅行の恵み~ホンモノを見る目
 イスラエル大使館のPRアニメ「いいね!イスラエル」はもうご覧いただけましたでしょうか?観光地としてのイスラエルの魅力が十分伝 わってきましたね。でも、なぜ人々が聖地イスラエルに熱狂するのでしょうか?またニュースを見ていると、いつも宗教で争っているように 見えます(その報道が正しいかどうかは別にして)。「なぜあれ程に様々な霊的思惑が交差するのか」疑問に思いませんか。面積としては 日本の四国程しかないあの場所でです。

 さて原因の本質についてですが、聖書的背景が分かっていないと説明がつきません。先ほど述べた通り、聖地で宗教を理由に血が流され ることに多くの人々が悲しみや怒りを覚えます。なぜでしょうか?宗教がいけないのでしょうか?しばしば「中東で利害関係のない日本が出て 行って『和の精神』で互いを和解できる」という声を聞きます。どうせ目に見えない唯一の「真理」なんか分からないんだから、何を信仰しても 一緒、ルーツはどうでもよく将来を見ようという「ポストモダン」的な発想ですね。しかしもしも「宗教」という部分を迂回して解決できると 思うならば、それは無知であり浅はかすぎます。

 そうではなく、彼らが共通理解として持っている聖書を土台に、各々の立場を理解しなければ、起こっている出来事の真理(そこで立ち回る彼らの 「魂」)までは到底理解できません。聖書を通して誠実にこの地を、この民を理解しようと試みるときに、背後にある大きな存在を見出さざるを 得ないのです。聖地旅行は決して安い旅行ではありません。移動時間も長いです。せっかく行くのですから、単なる“パワースポット”というご利益主義的な 理解で終わっては、勿体無いじゃありませんか?

 聖地旅行はクリスチャンにとっても非常に有益です。まずホンモノ(ユダヤ的背景)を確認することで、非聖書的な聖書解釈や、教会の 伝統が生み出した規則(口伝律法)を見破り、今日のクリスチャンが何を守るべきかを自分で考える(自分勝手ではなく)力を養います。神様 のご計画の全体像を理解する助けにもなります。また、主に詩篇などで、イスラエルの情景が詩的に描かれる場合がありますが、体験すること で聖書がフルカラーで見えてきます。イエス様のたとえや状況が良く理解できます(イスラエルの自然や旧市街の立地などを視聴覚で体験する ため)。

*救いの要素と巡礼の恵みを混同しない
 今日のクリスチャンにとって、旧約聖書で律法を守ってきたユダヤ人たちのような「巡礼」は必須の行為ではありません(そもそも神殿は既 にありませんが…)。福音は世界に展開し、すべての人々に信仰の扉は開かれた。巡礼しなくても、信仰ゆえに救われますし、尊敬すべき敬虔 な先人たちもいます。

 しかし「必須でない」ことと「しなくていい」ことは決して同意ではありません。ビジネスの世界でもそうですが、どれだけインターネット が発達しようと、実際に現場に足を運ばなくては分からないことがあります。これだけ交通事情が発展し、情報が提供されているのです。 このような恵みを、「必須じゃないから」という理由で利用しないのは勿体無いと思いませんか?

*聖地旅行で得たもの~主は確かにおられた、そして私の内に…
 私はイスラエル旅行で何を得ただろうか?確かにものすごい景色を見せていただいた。エルサレム(海抜800m) から死海(海抜-400m)まで一気にバスで下る地形、広大な荒地や岩山と、その遥か先に見える靄がかかった死海、ガリラヤ湖の恵み、 遺跡、エルサレム旧市街、神殿の丘・・・良くもこの狭い土地にこれだけものを詰め込めるな、と思う。そしてそれらすべての摂理を 絶妙なバランスでつかさどるお方の存在を無視できない。大きく世界観が変えられた。宗教といえば神道や仏教だと無条件に考える私たち 日本人(もしくはそれさえも日常生活では無視してますが)の常識が、狭い限られた中での常識でしかないということに気付かされる。 確かに聖書の記事は本当だった…。

 主は私が覚える感情の幾倍もの大きな愛で私を(もちろんすべてのクリスチャンを)覚えてくださり、二千年前のあの日、十字架 についてくださいました。そして今も私を大きな愛でとらえ、最善を用意して望んでくださるのです。

 さて、9日間の聖地旅行の後、私は何を得たのかを自分に問う。それは「主の愛は確かにここ(エルサレム)にあった!」ということ を見せていただく旅行だった。主はナザレは育ち、 民を愛し、弟子たちを愛し、御父を愛し「この人々は自分が何をしているのか分からないのです」と罵倒する者らにさえとりなしの祈り をささげて、十字架についてくださった。そのイエスの目線の先には二千年後の異邦人の私たちさえも見据えている。私たちもまた主の 愛の対象である。旅行の終盤で、十字架前夜に黙って受けられた侮辱、大祭司カヤパの官邸(現、鶏鳴教会)の地下牢や、ヴィア・ドロ ローサ(主が十字架を担いだ刑場までの道)、また聖墳墓教会(ゴルゴダと墓を含む)を見学するなかで得た結論、それは「主の愛は確かに ここにあった」。それを教えるために神様は遥かイスラエルまで、すべての条件を整えて導いてくださったと思うようになりました。 そして、私が仮にイスラエルに行かなかったとしても、主は既に私の内にいて共に歩いてくださっていた、と気付いたのでした。

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