イスラエル

選びの民イスラエルを祈る

ユダヤ人とは? ~キーワードは「契約」~  すべての人類は、はじめの人アダム以来、神様の前にあって有罪(罪人)であると聖書は教えます。 立場においても、また言行や考えにおいても、完全に罪から離れることはできず、神様の正しさとは程遠いのです。

 神様が人類を救済するためのプラン、それもまた聖書を注意深く見ると分かります。そのはじめにひとりの男性 (アブラム・アブラハム)を選び出し、彼と契約(アブラハム契約)を結びました。(旧約聖書 創世記12章ほか)。 その内容は、物質も霊的にも「祝福」し、既にカナン人が先住していた「土地」を与え、老夫妻の胎を開き、海辺 の砂のごとく「子孫」を満たすというものでした。いずれも、すべてを造られ、すべてを所有しつかさどり、すべ ての命の源である神様でなければ成し得ない約束でした。

 この契約は彼の子達(イサク・ヤコブ)に継承され、やがて国家として召しだされたイスラエル(出エジ19章) が、契約の当事者となります。(彼らはヘブル人・イスラエル人・ユダヤ人の名称で扱われる)。彼らは、すべての 民族の中から神様によって選ばれた存在です。旧約聖書において神から直接指導や導きをいただき、多くの奇蹟をも 目の当たりにしました。この当時、世界の最先端であった大国エジプトから出てゆくことなど、超自然的な介入がな ければ到底不可能です。

 そして上記の契約以外にも、モーセ契約、土地の契約、ダビデ契約を結びました。なぜ彼らが選ばれたのでしょう。 それは決して彼らが優秀だったからではありません。「ある目的に用いる器」として神様から一方的に選ばれました。 つまり彼らの内から、旧約聖書で預言された全人類の救い主(イエス・キリスト)を生み出し、さらに彼ら自身が やがて異邦人※たちに「まことの神」と「救い主」を伝える祭司の民となることを期待されて選ばれたのです。選び と責任は表裏一体なのです。

※非ユダヤ人を意味する。

 やがて時至り、ユダヤ人の処女マリアを通して救い主(メシア)キリストが生まれました。神の言葉は成就しまし た。しかし、なんと彼らはそれを拒否してしまうのです。メシアはいつ生まれる?どこに?誰なのか?ずっと待ち望 んでいたのに、彼らのうちの宗教指導者たちはイエス・キリストをメシアとは認めませんでした(今日もそうであ る)。神の言葉は既に啓示されていました。しかし霊的に盲目ならば、その啓示が意図することは理解できません。 こうして、彼らは指導者たちに先導されて、約束された救い主を十字架に付けてしまいました。



神は契約を守られる  以後、いわゆる「キリスト教」と呼ばれる教えは異邦人を中心に展開してゆきます。そしてユダヤ人は「主を殺した 民、呪われた民」として扱われ、紀元70年以後エルサレムがローマによって陥落し、離散したこともあり、やがて迫 害の対象になります。もともと旧約聖書でも頑な(うなじのこわい者)であった彼らですが、ますます霊的にはに頑な になり、関係をこじらせてしまいました。

 そして聖書解釈においても、本来聖書にないものが持ち込まれ、異邦人目線で聖書が解釈されます。たとえば新約聖 書で用いられる「イスラエル」という単語は「教会」(あくまで異邦人中心による)に置き換えられ、ついには教会の 歴史や教理・神学の面からイスラエル・ユダヤ的側面が削ぎ落とされました。もはや先にあげた数々の特権(選民であ る、契約の当事者である、奇蹟に与るなど)も、ユダヤ人は捨てられ、教会(異邦人による)にスライドしたと理解し たのです。

 しかし、新約聖書によれば「教会」とは本来、ユダヤ人と異邦人が一致して作られます。「隔ての壁」が取り除けら れて、異邦人もユダヤ人と共に神を礼拝できるようになったのです(エペソ2:14)。本当にユダヤ人たちは呪われてい るのでしょうか?彼らの祝福は取り除けられたのでしょうか?

―――考えてみてください。人類に救いをもたらす良き便り(福音)はどこから来たのでしょうか?それをもたらした 多くの弟子や使徒たちはどこの生まれだったのでしょう?最初の教会は?イエス様は?今日存在する神の言葉である聖 書は?・・・そうです。すべてイスラエルです。今日神を礼拝しているクリスチャンは、イスラエルを通して多くの祝 福を受けていて(もちろんその基は神様から)、彼らには霊的な借りがあるのです。

 もしも神様の目から見てイスラエルが完全に終わっているのなら、彼らがそのような働きをするはずがありません。 そして新約聖書は、イスラエルの背きは異邦人に救いがもたらされるために、既に神の計画の内にあった(イザヤ53 章)こと、しかもその頑なさは永久のものではなく、やがて多くの者たちが救われること(ロマ11章)さえも教えて います。彼らは神様の目から見て、今日においても特別な民族・国家であり、旧約聖書で交わされた契約の当事者で あるという事実は変わりません。聖書は教えます。神の言葉は変わることがなく(1ペテロ1:23)、神の賜物と召命 (イスラエルに与えたという文脈)もまた変わることがない(ロマ11:29)



歴史の妙~神は歴史を通してご自身を表す  かつてユダヤ人たちは誤った選民意識を持ち、異邦人たちを祝福から遠い者として侮っていました。しかし教会時代 に入ると、異邦人によってその逆のことが行われました。新約聖書が将来の計画の中で示す「イスラエル」を字義通り に受け取ることは難しかったかもしれません。既に紀元70年にイスラエルは国家として消滅したのですから(その原因 は唯一まことの神と契約を結ぶ民が、キリストを拒否したことにある)。歴史家たちはもはや「再建不可能」と理解し ていました。しかしイスラエルは、迫害と流浪の果てに、紆余曲折を経て1948年に建国されました。聖書が示す「終末」 が実現可能な状況となり、聖書解釈においても、字義通り受け取ることの大切さが再評価されました。

 もしも聖書を比ゆや象徴で読み進めるならば、本来もっとも祝される箇所である終末の記事が分からなくなります。 その比ゆをどのように、どれだけ入れるかで結論が大幅に変わってしまうのです。その順序や「千年王国」と呼ばれる キリストご自身による統治の時代(千年王国)の根拠があやふやになってしまいます。それらは旧約聖書の契約や預言 の内容をよく吟味することで、はじめて理解が可能になるのです。

 また、その契約の中にはまだ実現していない要素もあります。たとえばイスラエルに約束されている土地の広さの相 違や、その統治においての霊的状態の相違です。今日存在するイスラエルは、どう考えても約束の広さには足りません。 また、霊的状態についても、多々異なった信仰が混在し、多くの血が流されます。犯罪もあります。若者たちの世俗化 もあります。旧約聖書で約束された素晴らしさには程遠い。この相違について、ユダヤ教のラビたちも論じますが、新 約聖書を認めないために、答えに到達することはありません。

彼らの土地への思いは、今日のイスラエル国歌「ハ・ティクバ(希望)」の歌詞中にも見えます。(シオニズム運動自 体は必ずしも霊的動機ではありませんでした)。


「ハ・ティクバ(英語でthe hopeの意)」

ユダヤ人の望みは 遥か古より シオンの地を目指すこと。

いざ東へ向かわん。

希望は未だ尽きず 二千年が望みは。

シオンとエルサレムの地へ 自由を得るために。

シオンとエルサレムの地へ 自由を得るために。

イスラエル,ハ・ティクバ

イスラエル国歌 Israeli national anthem


 神様は歴史をつかさどり、その言葉は必ず成ります。では契約の内に存在する未だ実現していない約束はどうなる のか?それは新約聖書の黙示録が示す終末が到来したときにはじめて「完全な形で」実現します。異邦人クリスチャ ンが待ち望む「千年王国」の理解、それは多くの場合黙示録の成就です。そして信仰と恵みにより救われた者たちに よる時代とするならば、新しい契約(新約)の延長にあります。しかし、旧約聖書の契約の当事者であるユダヤ人ク リスチャン※たちにとっては、土地をはじめ、それらの契約の未実現部分の成就の時、という側面があります。

※メシアニックジュー



結論① イスラエルを祝福せよ 結論として、異邦人クリスチャンはイスラエルに対してどうすべきでしょうか?

 まず、これまでイスラエル・ユダヤ人については「契約の当事者」ということを強調しました。契約の中には古い 契約(旧約)と呼ばれ既に役目を終えたもの(モーセ契約)もありますが、注目したいのはユダヤ人の基である族長 三代の筆頭アブラハムとの契約です。その中に「アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われる」という約 束があります。この契約(約束)は息子であるイサク→ヤコブ→ヨセフをはじめ12兄弟(後のイスラエル民族)に 継承されます。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」がイスラエルを召し出した。その契約が今も有効であるならば、 詩篇122:6「エルサレムの平和のために祈れ」は第一義を大切にすべきではないでしょうか。もちろん適用として、 異邦人でも新約を通して神の子とされたクリスチャンに対して用いることもあるでしょう。しかし、まずイスラエル の祝福と霊的な目覚めについて祈るべきでしょう。



結論② それは、日本のリバイバルの願いとも一致する  私たち自身は日本人であり、当然同胞の民の霊的目覚めを願うことも聖書は教えています。ではこの両者の願いは
調和するのだろうか、それを最後に述べます。聖書によると神の計画は、教会時代→教会携挙(クリスチャンがまず 天に挙げられる)→患難時代(イスラエルを霊的目覚めに導くための試練の7年間)→主の再臨と千年王国時代とい う流れです。教会携挙はいつ起こるか分かりません。しかしその後の患難時代と千年王国についての順序と期間は明 らかにされています。つまり主の再臨をもたらすイスラエルの民族的救いが早く来るように願うことは、当然その前 に予定されている教会携挙が早く来るように、そして救いに予定されている人々が早く救われるように、という願い とオーバーラップしてゆくのです。イスラエルの民族的救いは、異邦人の救われる人々の数が満ちるまで止められて いるのです。それはひとりでも多くの同胞の民(日本人)の救いを願う祈りとも重なります。日本において民族全体 としてリバイバル(聖書への霊的覚醒)が起こったことはありません。神様はその時を保留しておられます。その時 のために、日本人クリスチャンは取っておかれているのです。

エルサレムの平和のために・・・  神の救いの良き便り(福音)は、全世界に羽ばたきました。しかし、エルサレムの役目はキリストの十字架・葬り・ 復活・昇天で終わりでしょうか?そうではありません。主は再び地上に戻られ、その時エルサレムには神殿が建ち、 主は救われたユダヤ人たちとともに、そこで統治されます。そして異邦人たちは、エルサレムを目指して巡礼する する祝福の時代、これが千年王国です。

 誤解しないでいただきたいのは、今日のイスラエルの政策のすべて賛同せよと言っているのではありません。選び の民であろうと神ではありません。過ちも犯します。しかし、いわゆる「ユダヤ陰謀説」や「日ユ同祖論」のような ものに振り回されてはいけません。イスラエルで何が起こっているのか、本当に正確な報道を見極め、愛と忍耐を もって祈ることこそ、聖書が求めているのです。

 神様にとってエルサレムは今日も特別な場所であり、それ故に太古の昔からそれを妨害すべく様々な思惑が交差し、 ぶつかり合う世界の霊的な中心(へそ)なのです。







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