聖書の言葉

聖書の言葉② ・・・・ 命を生み出すことができるお方

大切な人を亡くされた方へ  「すべての命には限りがあり、必ず終わりがある」。どんなに医学が発展しようとも、これは避けられ ない事実です。「死」それはすべての人が「命」について真剣に向き合う時です。「私は、どこから来て、 どこへ向かおうとしているのか」「命はなぜ尊いのか」「死んだらどこへいくのか」など、私たちは慌し い日常生活で、あえて目線を外しているが本来は大切なこと、命について直視せざるを得ないときです。

  神の言葉は、命を見送る者に何を教えてくれるでしょうか?まず、すべての命を生み出し、つかさどる ことのできる方の存在を教えます。そして、死後の命があることを教えます。神は信仰によって人を救い、 ご自身の元に招いてくださるという慰めをいただきます。そして、天で再び会うという希望を保証します。

 その反対に「すべての道(宗教)は頂に通じる」という世界観、これは残念ですが死に対して何の答え も示すことができません。なぜなら、すべての死後の世界観を調和して、そこから何か真理を見出そうと しても調和できないからです。結局、多くの場合各々が「こうであってほしい」という思いにしたがって 終末を語ります。例えば「向こうの世界で好きなだけ○○してね」などの弔辞の言葉が仏式の葬儀でさえ 語られたりします。しかし、仏教の死後の世界観は、本来は修行しにゆくのです。各々が語る終末“持論” に果たして根拠があるでしょうか?――― そうです。本当は死後のことなど分からないのです。

 しかし、それでも最愛の人に死に直面するとき、人は悲しみを抱え死後の世界を思い、慰めを求めます。 それは、「すべてが無になった」という理解に多くの人々は耐えることができないということを示します。 さらに、聖書によると人間は死後のいのちが存在することを本能的に知っているのではないでしょうか? 最初の人アダムは、神の似姿として生み出されました。人間には他の動物にはない様々な特徴があります。 何らかの“神”を見出し、礼拝しようとする姿勢、また死後の命を予感すること、これらは神の似姿(罪 の侵入によって不完全になりましたが)の名残りといえるのではないでしょうか?

 「私たちはどこから来て、どこへ行くのか?」―――私たちが死生観をどう理解するか、それは私たち の地上生涯の歩みを決定します。逆に言うと死生観が変わるならば、その人の世界観も変えられ、それは 私たちの歩みに大きな影響を与えます。すべての人はそれぞれが持つ「世界観」に従って歩んでいるので す。私たちは、日常生活で大切なことから目線を外して、考えないようにしているのです。当然、その弊 害は私たちの内に、そして行動として現れます。

 「死後どこへ行くのか」という問いに、聖書は明確に答えます。そして聖書を学ぶほどに、その深みを 知ります。数千年もかけて、約40人の聖書記者たちによって書かれた聖書(66巻)のそれぞれの書の調 和や、歴史との一致などを目の当たりにするとき、聖書がいい加減な教えではないことが分かります。こ れほど様々な批評的や吟味に耐え、今日も認められる書は他に類を見ません。



日本特有の事情~私だけ救われて良いの?  しかし日本においてはこれだけ明確な真理を示しても、それが必ずしも残された者にとって慰めや希望 になりにくい現状があります。例えば、祖父母や両親を失った場合「彼らが救われていないならば、私だ けが救われても…」という思いが起こり、真理がゆがめられてしまうのです。かつて私も同様の疑問を持 ちました。大好きな祖母を胃がんで亡くした際、葬式でお坊さんに勧められて(当時はクリスチャンでな かった)、祖母を思い「延命十句観音経」や「般若心経」を暗唱しました。すべては大切な祖母のため。 しかしその後クリスチャンになり、信仰ゆえに救われました。さて、そこでこの疑問です。
「―――――――祖母は果たしてどこへ行ったの?」。

 しかしよく考えてください。神は人をキリストへの信仰ゆえに救います。「クリスチャン生活」をした から、「洗礼」を受けたから救われるのではありません。亡くなられた方が一生涯を通して、果たしてキ リストを受け入れていないと言い切れるでしょうか?他人には分かりません。神様と本人のみが知るとこ ろです。神様は正しく判断してくださいます。信頼しましょう。また、先に逝った者がどのような結果に あろうと、後から来る者が真理に正しく従うように懇願するのは当然ではないでしょうか?

 聖書は教えます。キリストへの信仰によってのみ救われ、そうでなければ滅び(地獄)へ落とすと。 厳しい滅びの教理は、私もできたら無くしてあげたい。しかし、神の言葉は不変であり、捻じ曲げること はできません。誠実に取り扱うべきです。

 ある人々は「神様が愛なら滅びなんてあり得ない」と反論します。しかし、そのような意見は私たちが 本来罪人であること、神様は「愛」であると同時に「義」であり、罪を正しく裁かれ、見過ごしにできな いという性質を忘れています。信仰によって救われないならば、滅びに落ちる。だからこそ、キリストの 弟子たちは、またクリスチャンの先人たちは一生懸命に、時に命がけで「十字架についてくださった救い 主キリストの愛を受け取るように!!」とお勧めしているのです。教会は単に“檀家”を増やしたいので はありません。

もうひとつの実を望まれ (To Bear Another Fruit) - 松本優香



あなたはどう応えますか?  最後に、聖書は既に地上生涯を終えた者たちの扱いよりも、むしろ神様が示した真理にあなたはどう応 答するか?という点に焦点を当てています。林修先生の「今でしょ」という言葉が流行って久しいですが、 聖書は常に「今、あなたはどうするの?」と問いかけています。どうかその声に誠実であってください。 「すべての命を生み出し、つかさどる方」の問いかけに…。

 残された者の思い「もっとあの人のそばにいたかった・・・神様なぜ!」。そんな大きな喪失感や疑問、それ はクリスチャンであっても心に生まれてくる正直な感情です。ある場合は何も言わず、ただ隣で一緒に涙 を流してあげることしかできません。

 どうか心が少し落ち着いてきたら、覚えてほしいことがあります。あなたが嘆き悲しむほどに大切な人に出会わせ ていただいたこと、同じ時代に、同じ場所で、ある場合は家族として歩みを共にし、かけがえのない大切 なときが与えられたこと、楽しかった思い出、大好きな人々の笑顔、そこに流れていた穏やかな時間を ありがとう。すべての命を生み出し、つかさどることのできるお方へ・・・「ありがとう」。

 神様の愛はすべての人々に日々注がれています。これが聖書の教えです。もしもあなたが、その愛を意識して受け 入れるならば、初めて「私の命には価値がある」と確信できるのです。あなたはどのような 死生観・世界観に立ちますか?それは確かな真理ですか?聖書は神様からあなたへの大切なラブレターです。 あなたの今の歩みはさらに素晴らしいものに変わり得ることをどうか忘れないでください。






【もうひとつの実を望まれ/松本優香】
(音量にご注意ください)
主から選ばれて
この世に植えられた
もうひとつの実を望まれ・・・

ありがとう。気付いてなかった
どれほど愛されているのか

はじめから今まで神の愛は
いつも注がれていたこと

ありがとう。その愛教えてくれた
主から与えられたきみに

キリストの愛でもっと仕え
私もこの世に仕えよう

きみは愛されるため
その愛伝えるため

主から選ばれて
この世に植えられた
もうひとつの実を望まれ・・・



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